reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「萌え」は記号だが、肉体的な感覚だ

萌えには、「ネコ耳萌え」「姉萌え」「妹萌え」「メガネっ娘萌え」とかいろいろありますが、それはほとんど脊髄反射のようなものです。

そこにはほとんど思考がありません。


「萌え」が流行った頃、同時に「泣ける」という物語が流行りました。ゲームでも、ドラマでも、小説でも。


韓流ドラマとかケータイ小説なんかその最たるものですが、ギャルゲーも含めて共通点は、トラウマとか虐待とかそこからの再生とか、ありきたりの素材を作中にばらまくことでした。


そしてボタンを押すように、作中でそれらの場面が出ると人は泣くのです。ほとんど脊髄反射のごとく。




音楽に詳しい方ならご存じかと思いますが、ほとんど同じことが音楽でも言えると思います。

あるコードを鳴らすとみんな興奮し、別のコードを鳴らすとボロボロと泣き出す。

ある特定のコード進行で気分は高揚する。


ボタンを押すように、人の気持ちは支配できます。




よく勘違いされているんですが、「萌えは記号」ですが、「だから視覚聴覚に頼って肉体的感覚と異なる」ということはありません。


ほとんど、山の山頂に登ると気分が爽快になるのと同じレベルで、人は感覚的に萌えやあるコードに反応します。




「時代は情報があふれ、それに対応しきれなくなった人たちは単純な記号に頼り、人間的な感覚を失いつつある」という意見は正しいです。


ですが、その「人間的な感覚」とは、「記号を言語として運用する技術」です。記号に脊髄反射する行動とは真逆の行為です。


「記号を言語として運用する技術」とは人間が動物から別れる根本的な部分です。

動物は言語を持ちません。

それ故過去も未来もなく、現在しかありません。

経験は言語として蓄積されず、すべて反射的に行われます。


その点で、「萌えという記号を消費する」という行動は、そのような言語的な行動とは真逆の、動物的な行動であるといえます。


だから、「萌え」とかコードの支配に対して、「人間は五感を取り戻し、肉体的感覚をもっと大切にしなければならない」というのは完全に誤った見解で、むしろ「言語的な思考を取り戻さなければならない」というのが正しい答えです。




人間は、動物的な、言語外の肉体的な感覚と、言語的な理性的な感覚を併せもち、そのバランスを取ることで「人間」として生活しています。


感性重視も、言語重視も、それではバランスが悪いのです。


身体的な感覚と言語的な思考をバランスよく持ち合わせることが、大切なことだと思います。