「大喜利」ではない議論を、ネットのアーキテクチャで行うことは可能か?
「大喜利システム」、もしくは「お茶の間システム」
それはなにか?
「お題」が提示され、それに対して返答があり、その返答に対してまた言葉が紡がれ、場に多くの人が集まることでその人達から少しずつお金がこぼれるシステム
類型
収益構造
- 視聴料
- 広告料
概念化
「お題」と「コメント」、「コメントのコメント」、「コメントのコメントのコメント」、全体を包括する「場」
問題点
「お題」に終着点がないと、単なる「気分」を言い合って終りになる。もちろん、その意図ならば正解。
「お茶の間システム」が隅々まで行き来した結果、「政治のエンターテイメント化」をはじめとする「◯◯のエンターテイメント化」が進む。
そこに「視聴者」とか「国民」が生まれる。
しかし、誰かに責任をとってもらうだけの「国民像」でいいのか?
「お茶の間システム」がアーキテクチャとして提起する「国民像」は結果として「責任から自由に言いたいことをいう主体」になった。