「贈与経済」について、勘違いされやすいこと
このところ、岡田斗司夫さんが名付けた「評価経済」や、内田樹先生がよく取り上げる「贈与経済」が話題になっています。
あるところでは、「贈与経済」≒「評価経済」という認識も生まれつつあるようです。
ですが、「評価経済」はわからないのですが(充分読み込んでいないので)、「贈与経済」というものは、まったくバラ色ではないです。
と言うよりもむしろ、今ほとんどの人が感じている閉塞感は「贈与経済」から生じているんですよ。
端的に言えば、「贈与経済に戻ろう」は、「貨幣経済の拡張によって切り開かれた『自由』を諦め、血縁地縁関係に戻れ」という(新)復古主義宣言にすぎないです。
「そんなことは当たり前」と言う方は、以下の文章は読む必要はないです。
ですが、どうも多くの勘違いによって、バラバラな受け止め方をされているようなので、あえて「贈与経済」について書きます。
「贈与経済」を支える最も重要な力
「贈与経済」を成り立たせる「力」は、「返報性の原理」です。
「返報性の原理」とは、「通常、人は他人から何らかの施しをしてもらうと、お返しをしなければならないという感情を抱くが、こうした心理をいう」、というもの。
人間には、「なにかを与えられるとそれ以上のものを与えようとする習慣」があります。
それが「返報性の原理」です。
重要なことは、「お返しをしなければ」という「感情」は、与えられた人間の内面に生じる、ということです。
「贈与経済」の力点は、「与える側」ではなく、「与えられる側」です。
それは、たんなる「感情」ではなく、ほとんど「強制力」と言っていいものです。
「与えられる側」の内面に生じる「お返しをしなければならないという『強制力』」です。
「贈与経済」は、「与え合う」美徳を推奨しているかのように見られがちです。
ちがいます。
「贈与経済」を突き動かしているのは、与えられる側に生じる「返報性の原理」です。
「人間は人に与えるのが好きだし、金持ちは使い切れないほどのカネを持っているのだから、それをだれに与えるのかが問題だ」とか、それに付随して、自分がそれを受け取れる若者なのだ、という、なかば扇動のような言葉がおおっぴらに叫ばれていますが、大間違いです。
これからは違う経済システムに切り替えるしかない。
それは「贈与経済」である。
とりあえず使い道のない金があるなら、いまだ身体的需要が満たされていない人たちに贈与すればよろしいではないか、というのが私の主張である。
贈与のためのシステム作りはけっこう骨折り仕事である。
社会的成熟に達していない人間は「商品を買う」ことはできるが、「贈与する」ことはできない。
贈与は人間的成熟を要求する。
私たちの社会システムは「適切に贈与を果たしうるような成熟した市民の育成」を目標として制度設計のやり直しをしなければならない。
経済成長の終わりと贈与経済の始まりについて - 内田樹の研究室
贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「贈与経済」論(再録) - 内田樹の研究室
おっしゃるとおり。
でも、これはね、「贈与経済」じゃないですよ。
むしろ「反贈与経済」とでも言えるものです。
「贈与経済」というシステムを突き動かすのは、言い方を変えれば、「負い目」です。
「与えられたもの以上のお返しをしなければならない」という、「人間」が本来備わっている「性癖」です*1。
「贈与経済」は「貨幣経済」と並列している。
「貨幣経済の次は贈与経済」。そんなふうに言う人がいます。*2
「貨幣経済の次」と、あたかも「貨幣経済」によって「贈与経済」が駆逐されたので、今度は新たに「贈与経済」が復興する、と、対立的に描こうとします。
そんなことはないですよ。
貨幣経済は贈与経済に包括されているし、両者は並立しているから。
むしろ、「貨幣経済の『負の側面』」って、実際には「贈与経済」、人々の内面に生じる「返報性の原理」という強制力から生じていることが多いです。
「貨幣経済は『なんでも金で買える』汚い社会を作った。人々は反省しなければならない。これからは贈与社会だ」とか。
そんな文章を見かけると、逆だろ逆、とおもいます。
ほんとうに「貨幣経済が全面化」すれば、何が消えるでしょうか?
汚い社会?
金の亡者の社会?
ほんとうに?
そのかわり取り戻せるのは、温かい人間関係?
ほんとうに?
「贈与経済」が悲劇をもたらした
DV、土着の人間関係に縛られること、ローンの返済と子供の学費のために稼ぎ続けること、パチンコにのめり込むこと……
「貨幣経済の全面化」の罪として、上記のような事柄が挙げられます。
これらは、「貨幣の全面化」によって起きているのでしょうか?
まったく逆ですよ逆。
土着の人間関係は、「カネ」で縛られていますか?
都市に出れないのはなぜですか?
貨幣が全面化したからですか?
違うでしょう。
その土地への「愛着」と、そしてなによりも「恩」を感じるからでしょう。
家のローンで四苦八苦しているのは「貨幣が全面化」したからでしょうか?
そのために必死になって勤め続けるのは、「貨幣が全面化」したからでしょうか?
そもそもなぜゆえ「ローン」を組まなくてはならなかったのでしょうか?
本人の見栄、家族の要望、必要にかられて。いろいろあるけれど、多くの人は、自分の家族を「人並み」にしたいと願っています*3。
「人並み」になりたいのは、「お返しをしたい」からでしょう。家族に。子供に。恩人に。
だから、果てしない長いローンを組んでも「家」というブランドを手に入れようとします、家族のために。
これって「貨幣の全面化」ですか?
「等価交換」どころか、「贈与」そのものじゃないですか。
ローンにしても、強いられて組んだのではなく、本人の自発的な意思で組んでいるんです。
本人が「自発的に」手に入れたいと、内面に強制力が生じたからです。
その「欲望の喚起」の実際は、「与えられたもの(愛情とか、形のないものでもすべて)を返さなければ」という、内面の強制力ですよ。
「贈与経済」を統べる力は「押し付ける」力
繰り返すと、「返報性の原理」とは、「なにかを与えられるとそれ以上のものを与えようとする習慣、強い強制力がはたらくこと」です。
もし、内面に生じた「お返しをしなければならない強制力」が測定可能な量だったとしたら、それは「贈与借金」とでも言えるものでしょう。
わたしたちの多くは、いつのまにか、「贈与借金」で押しつぶされそうになり、日々がその返済で費やされています。
端的に言えば、わたしたちはもう、「贈与経済」のまっただ中にいて、ひたすら自分の必要ないものを、「欲しいものが、欲しいの」という言葉とともに押し付けられ、そのお返しをしなければいけない、という内面に生じた力でパンパンになっているんです。
私たちは毎日、「お返しをしなければ」という圧力を心のなかに感じ、もうクタクタなんです。
ほとんど必要ないものを手に取らされ、「贈与借金」の借用書にいつの間にかサインをしていて、毎日をそのお返しに費やしています。
テレビは無料ですが、そこでダラダラと流されている内容はまるまるコマーシャル、番組そのものが巨大なCM。
けれども、ずっとそうだから感覚が鈍感になってわからなくなる。
そしてスーパーに行くとテレビでやっていたから手にとってしまう。
「うちもそろそろ」と必要のない「エコ」なものを買おうとする。
タダより高いものはない。
タダで受け取れば「返報性の原理」が内面に生じてしまうから。
「借りを作ってしまう」から。
今の社会は、「金と金の関係しかない冷たい社会」ではないですよ。
「借りを返さねばならない」と内面に生じる強制力に振り回されている、「与え合う疲弊した社会」です。
大事なのは防衛力
「金が金を生む社会」のオルタナティブとして「贈与経済」が大事、といっている人は、「返報性の原理」という強制力の影響をよく理解し、上手に使っている人で、これからも使える人でしょう。
「贈与経済」の力学がわかっている人から見ると、「与えること」は相手の内面を操作する手段の一つ、と見えてきます。
この人たちは、今まで広範に植えつけた「贈与借金」を回収にかかっています。
いまの「経済」は、この「返報性の原理」(だけではなく、「影響力の武器」すべて)を徹底的に使い尽くして死闘をくりひろげている場所です。
それは「貨幣経済の全面化」とはまったく逆です。
「カネで人の命を買う」最後のひと押しは、「ヨスガ(絆)」です。
では、個々人はどうすればよいのか?
自分に与えられた影響をきちんと見つめなおして、どんな強制力が働いているかを考える。
そこをよく見極めないとないと、なんだかわからないうちに人生を家族や知り合いや同僚や上司や国やマスコミや詐欺師やもろもろの人たちに感覚をめちゃくちゃにされて、「贈与借金」の返済のためだけに生きる人生になります。
個人としては、要らないものは要らない、と、適度に『断る力』を発揮することでしょうか。
「地獄への道は、善意で舗装されている」
「善意」が、心の「負債」=「贈与借金」として、あなたを押しつぶしませんように。