reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

自己肯定感と成熟


「自分を肯定できないのは愛されなかったからだ」という考え方があります。
「人は自分の人格を全て受け入れられてはじめて自己肯定感を持て、安心して生きていける。不安感が先に立つ人は、幼い頃愛されなかったからで、自分を全面的に受け入れてもらう必要がある」というような内容です。

本当でしょうか?

結論を先に言うと、成熟はむしろ自己肯定感の破壊によっておこなわれるのではないか。
(そして僕はその結論に違和感を覚えています)

精神分析では成熟の過程を、エディプス・コンプレックスという図式で説明します。

エディプス・コンプレックスはその名の通り、神話のエディプスから由来しているのですが、その名を用いず、簡単に述べると次の通りです。

人は、生まれてきたときは未成熟な状態で生まれてきます。それ故、庇護を必要とします。完全に受け身であるが故に、全てを周囲に委ねて引き受けてもらう存在です。子どもは周囲と自分を明確に分化せず、周囲が自分の要求を全てかなえてくれるのを感じて、自分は全能であると認識します。この周囲は、母の名に代表されます。
ところが、この未分化な状態、全能な状態は成長するにつれて共同体に属していくという仕方で壊されていきます。「こうしなさい」と躾けられるわけです。何をして良いのか悪いのか、共同体の規範がそれを決めます。子どもには、その共同体の規範がインストールされて、受動的→能動的な存在に変化する。変化をもたらすものは、共同体の規範であり、父の名に代表されます。
子どもは、母親と密着した未分化な全能感を、共同体の規範である父に否定され、母と分断されます。このことを去勢といいます。子どもは去勢されて、共同体の規範に従うことで能動的な存在になり、成熟します。

これを一言で言えば、「子どもは、自他の未分化な全能的な状態から、父によって去勢され、成熟する」と言います。

精神分析フロイト以後、様々な学派に分かれていますが、この基本的な構図は変わっていないと思います。


で、この構図から考えると、幼い全能感は、子どもが生きていく前提なのですから「愛」の有無以前に生きることそのものであって、そこを生き延びてきた子どもは全て通過しているはずです。
愛があってもミルクを与えられず排泄の世話をされず放っておかれたら子どもは死にますから。

この、周囲に全面的に依存している受動的な段階から成長し、「していいこと/わるいこと」をだんだんと躾けられていく段階は、自分で行動する段階であるとともに全能感を失う段階でもあります。周囲と自分は別の人間であり、自分を個体として認識していく段階でもあります。

ずっと「愛されて」いたら、成熟はできません。
人は成熟と引き替えに、全てを受け入れられる存在であることを止める、とも言えます。

1)人は誰でも、生まれたときは未成熟なので必ず全面的に周囲に依存する段階を経る
2)成長するにつれて共同体の規範をインストールされて、能動的に行動できるようになり成熟する

ということになり、「人は誰でも全面的に受け入れられている段階を経ている」し、「そこから離れないと成熟できない」ということになります。


最初に戻ると、もし、自己肯定感が「自分を全面的に受け入れてもらう」ということによって生じるとしたら、全ての人が必ず全面的に受け入れてもらう段階を経ているんですから、自己肯定感は生じているはずではないか、という気がします。

そして、成長するにつれて共同体の規範がその自己肯定感の基盤となる「全面的な受け入れ」を否定するのだから、人は誰でも自己肯定感が破壊されてしまう。


そんなわけで、結論として「成熟は自己肯定感の破壊によっておこなわれるのではないか」となります。


でも違和感が残ります。
なんとなく、「自分を受け入れてもらう」ことは必要だと思うので。

「全面的に受け入れてもらう」タイミングが問題なのかもしれません。
何を全面的に受け入れてもらうのか。「自分」だとして、その「自分」とは誰で、いつ生じたのか?

「自分」が他人と違う、という意味で自分を認識するとすれば、それは自他の未分化から成長して、共同体の規範をインストール=しつけられ、自分が何者かを共同体によって教えられる=共同体における役割を引き受ける段階であるかもしれません。
たとえば、私は「私」であるまえに「○○家の長男で、妹がいて、その兄である」とか、私が共同体の中に占める位置というものがあり、その位置によって自分というものは形作られます。

その段階を経て、その上で、他人から「受け入れられる」こと。

これはかなり特別な経験なのではないでしょうか?
少なくとも自然にあり得る経験ではない気がします。


要するに言いたいことは、

自己肯定感を持っている人って意外に少数で、それは別に不思議なことじゃないんじゃないかな、だって「自分」を受け入れてもらうことなんて、すごく特別なことで不自然なことなんだから

ということでした。