reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

逃げ方の作法

本エントリはid:dankogaiさん(以下、danさん)のエントリ「404 Blog Not Found : 小市民の敵は、小市民」に対する応答となっております。


これで最後です。


「マッチョとウィンプ」の二項対立について脱構築しようと思ったんですが、それはあまり需要がなさそうなのでやめます。というか、前のエントリでやりたいことはだいたいやったので繰り返しになってしまい、しつこいので。


ただ、ちょっとだけ言うと、id:fromdusktildawnさんが言われるマッチョは「合理的経済人」と言ったニュアンスで、danさんは保守的でパターナリズムな振る舞いをされているように見えました(あくまで私に見えると言うだけの話です。danさんが不快に感じられたらこの項消します)。

ここで言う保守的、とは、「市場経済の自由を信奉し、市民社会の道徳を重んじ、勤労と家族を尊び、社会からの『はみ出しもの』を蔑む態度」であり、パターナリズムとはそういった価値観を相手に要求するような態度のことです。

パターナリズムについてはid:kagamiさんが優れたエントリを書かれています(「自己決定せよという言説の矛盾 −自己決定権とパターナリズムについての考察−」「小飼弾氏は他者を独断的に否定する言説についてもう少し、考えめぐらしてもよいのではないでしょうか?」)。




前のエントリでは、「善意の忠告であっても受け手の側に十分それを解釈できる余地がないときは、その忠告は凶器と化す」構造を分析しました。まぁ、結論部分は

氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たち - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ
だから、「教えて!ダンコーガイ!」という召還呪文は、自分もマッチョになりたい人が、どうやったらマッチョになれるのかを教えて欲しいときだけにしか唱えちゃだめなんだよ。

ボロボロになってしまって立ち上がる気力もないときにその召還呪文を唱えようものなら、マジ死ねるアドバイスが降ってくるだけだよ。


ということなんでしょうね。かなり死ねました、はい。




さて、これまでエントリを書かせていただき、多くの方からご意見をいただいて自分を見つめ直す良い機会になりました。厚く御礼申し上げます。


もともと「就職氷河期で傷ついた人々」についての増田でのエントリが発端であり、自分もまた氷河期世代の一人として、それ相応に苦しみ、生き抜いてきました。そして、同世代の人たちの苦しみが何とか解消されないかと考えています。政治的にこの世代に救いの手を伸ばすことは非常に重要だと思います。個別の政策が必要です。

それは、これから考えていくべきですし、皆さんの議論のたたき台になるような論を展開できればと思います。




それとは別に、私自身の身に降りかかった出来事やそれへの対処の仕方について、様々なご意見をいただき、考えております。

僕が「仲間を見捨てられなかった」というのは偽善だと言えばそう言えるでしょうし、職場の雰囲気を悪くする原因の一端が私の行為にあったことも否定できません。実は「助けられた」相手や周囲にとっては、僕の取った振る舞いは迷惑以外の何ものでもなかったかも知れません。


でも、どうすれば良かったのか、どうすれば良いのか、未だにわかりません。

404 Blog Not Found : 小市民の敵は、小市民

  • 勝てる相手と、戦え。
  • 勝てなければ、逃げろ。
  • 逃げる力がなければ、それを貯めろ。


逃げだし方すらもわからなかったのですよ。意味がわからないかも知れませんが、そういう状況もあるんです。

うちの職場は、「日本の北朝鮮」みたいなところなのです。逃走者は後ろから撃ち殺すのが暗黙の了解だったし、逃げ出せない濃密な「ムラ社会」があったのです。

そして、職場から逃げても、地域からは逃げられない。地域から逃げても、新しい地域に囲い込まれる。そういう状況の中で戦時下の隣組制度のような状況下におかれていたんです。

監視、監視、監視、監視。

僕は自分のロッカーの中身をあさられたこともありますし、夜中の12時過ぎに自宅に仕事の電話がかかってきたこともあります(これは普通か)。「会社の持ち物だから、私有物は入っていないはずなので、ロッカーの中身を見られても何の問題もないはずだ」という理屈でした。もちろん私物は入れていなかったので(コートとかサンダルはさすがに入れていますよ)、あさられようが知ったことではなかったのですが。そして当然のごとく、お局や上司は私物満載の自分のロッカーには指一本触れさせようとしませんでしたが。触りたくもありませんでしたし。


今も、地方都市はもとより、東京23区でも東側の区では、こういった濃密な人間関係が網の目のように張り巡らされ、その中で人々は「生かされている」と思います(ここらへんの濃密なべたべたした感覚は、内藤朝雄さんの「いじめの社会理論」がわかりやすい例を挙げています)。


激しくDQNな地域で、人はそこで生まれムラに囲い込まれそこで生きそこで死んでいくのが普通だったのです。これは地方の話ではありません。都会の、23区内の話です。それくらい、人はムラ社会に密接に囲い込まれ、そしてそれを知らない自由な人たちとは「バカの壁」で仕切られてしまっているのです。


ずっと逃げてました。家族から、地域から、ムラから。けれど、そこを出ても次々とムラが、地域が、濃密な関係があらわれ、僕は絡み取られていったのです。


ここら辺の話は、たぶん同じ状況でないとわかりにくいと思います。




さて、そんな状況下で一番良かったのは(そして良いのは)、「日本でしか生きていけないと将来破滅するリスクがあるので、世界中どこでも生きていける戦略のご紹介 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ」で言われているように、「会社依存症」(これはアルコール依存症などと同じニュアンスですね)からどうやって脱するかを若い人たちで共有することでしょうね。

ネットにおけるリテラシーに僕が期待するのも、その点にあります。

現に僕は、皆さんのご意見をお聞きすることで自分の社会的な客観的立ち位置を知ることが出来ました。


おかしな幻想(この職場は正しい方針を持っているんだから、こんなおかしなことは続かないはずだ)に執着(依存)してしまったとき、まず大切なのは、それを振り払って、痛みを感じることが必要なのかも知れません。


何かの幻想は、阿片のように痛みを和らげてくれますが、現実からも遠ざけられることになります。


身も蓋もなく、頼ってくる後輩に「ここには未来がない。でも、俺にもわからないけれどどこかには未来があるはずだ。ここに執着するのは止めた方が良い。あと、お金は蓄えておいた方が良い」と言ったら良かったのかも知れません。共倒れになってしまうよりは。


でも、困ったと言われれば、たぶん僕は性懲りもなくそれにコミットしていくんでしょうね。

性分だからしょうがないかも知れません。




今から8年前、簡単に仕事を辞めるなんて考えられませんでした。就職氷河期の傷は、鋭く深かったのです。今だって、簡単に転職などできませんよ。確実に現職より労働条件も賃金も悪化します。それだけ悲惨な状況が背景にありました。カルネアデスの板のような状況でした。あってはならない状況でした。


個人レベルでは「自己責任」を「自己権利」へと思考を転化し、ポジティヴに状況を乗り切っていくことも一つの方法でしょう。

僕が就職したことで他の誰かは選考から漏れました。それも広義の意味では「他人をけ落とす」行動でしたし、それを言いつくろうつもりはありません。僕もまた、「自己権利」を行使して、それでもここまで生きてきました。そして今、僕は思っています。明日からも こうして 生きて行くだろうと。

個人の振る舞いとして、danさんが提案されることも、一つの生き方ではあります。


しかし、社会的なレベルでは、誰かが落ちていく社会なのです。それがdanさんの責任でないことは明白ですし、それをdanさんになんとかしてくれとも全く思いませんが、「個人の責任」に矮小化するような保守的な言説が正当化され、カルネアデスの板のような「緊急避難」行動を常に強いられる社会が正常とは思いません。




僕は、今は力をためているところです。

参考引用

「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提なのである。


 誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈りが論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危くされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。


 反宗教的批判の基礎は、人間が宗教をつくるのであり、宗教が人間をつくるのではない、ということにある。しかも宗教は、自分自身をまだ自分のものとしていない人間か、または一度は自分のものとしてもまた喪失してしまった人間か、いずれかの人間の自己意識であり自己感情なのである。しかし 人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、 倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。宗教は、この世界の一般的理論であり、それの百科全書的要綱であり、それの通俗的なかたちをとった論理学であり、それの唯心論的な、体面にかかわる問題であり、それの熱狂であり、それの道徳的承認であり、それの儀式ぱった補完であり、それの慰めと正当化との一般的根拠である。宗教は、人間的本質が真の現実性をもたないがために、人間的本質を空想的に実現したものである。それゆえ、宗教に対する闘争は、間接的には、宗教という精神的芳香をただよわせているこの世界に対する闘争なのである


 宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である


 民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。したがって、宗教への批判は、宗教を後光とするこの涙の谷 〔現世〕への批判の萌しをはらんでいる。


 批判は鎖にまつわりついていた想像上の花々をむしりとってしまったが、それは人間が夢も慰めもない鎖を身にになうためではなく、むしろ鎖を振り捨てて活きた花を摘むためであった。宗教への批判は人間の迷夢を破るが、それは人間が迷夢から醒めた分別をもった人間らしく思考し行動し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身を中心として、したがってまた自分の現実の太陽を中心として動くためである。宗教は、人間が自分自身を中心として動くことをしないあいだ、人間のまわりを動くところの幻想的太陽にすぎない。


 それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。こうして、天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、 神学への批判は政治への批判に変化する。」


カール・マルクス「へーゲル法哲学批判序説」