「未来改造のススメ」を読んだ
一気に読みました。
なんというか、「次の社会の話」をしている感じでした。
わたしは「働くことは苦役だ」といい、「働くことからの開放」として、「ベーシック・インカム」という制度を支持するエントリを書きました。
自分がしてきた仕事のつらさや、無意味さや、そりの合わない人と人とを調整しなければいけないめんどくささなどで、今も「仕事なんてクソ喰らえ」と思います。
しかし、どうも、実際に「ベーシックインカム」が実現したあとの社会は、労働に対する考え方が全く異なってしまうようでした。
それは、労働は、義務から権利になる。
これです。
無給の仕事は高い基準を要求する
今も、オープンソースやwikipediaのような報酬のない仕事に多くの人が従事していますが、その人たちは仕事の成果が高くなければ、その仕事から外れざるを得ません。
間違った記事をwikipediaに投稿すればすぐに訂正されます。
そして訂正した人、正しい記事を書いた人が、そのコミュニティにおいて「成功体験」を得ることができ、人からの賞賛を受けることができます。
ほんとうに有能な人しか仕事ができない。少なくともクリエイティヴな仕事ができない。
そういう社会になると。
それを描いているのが、id:fromdusktildawnさんのこちらのエントリ
です。
最後の部分、引用します。
もはや、働かなくてもかなり豊かに暮らせるようになった旧世代のある中年は、
「もはや、私たちの役目は終わった。我々はもう経済を支えなくてもいいんだ。
マッチョたちに任せておけば、日本は安泰だ。
金を稼ぐのはマッチョの役割。ゆっくり余生を楽しむのが私たちの役割だ。」
と言いながら、寂しそうに笑った。
労働から解き放たれたことで、生きがいや、自身の尊厳からも解き放たれてしまった人を描いています。
人は尊厳を必要とする
人は、食べ物だけではなく、ある程度の尊敬や親しい関係がないと精神的・肉体的に死んでしまいます。
これまで、仕事がそれを支えていました。
多くの人が、自分の尊厳を仕事に求めてきました。
女性は仕事から排除されてきましたが、「男性と同等の権利を」と唱え、男性の持っているものを私たちにも分け与えよ、と主張しました。
仕事で自分自身を規定し、尊厳を受け、生きていく糧としてきました。職場はひとつの社会でした。
ですが、仕事自体が権利となる社会では、多くの人の尊厳が「仕事」では規定されなくなる。
むしろ、残酷なまでに「実力」がみえてしまう。
そうなったときに、誰もが「人としての尊厳」をもって生きられる社会を構築することが、むしろこれから考えなければならないことなのかもしれません。
これまでの言説は「カネ」の話だった
これまでずっとマスコミの言説は「カネ」の話でしたが、これからはひとりひとりが尊厳を得るための言説を創りださないといけないのでしょう。
そしたら田原総一郎が言ったのが以下の言葉だ。
「戦後の日本はね、金の話以外はできなかったんだよ。」「じゃあ、(文化の話も)するようにしましょうよ」と東は軽く言ったが、
実はこの辺に、今回の討論における世代(だけじゃないけど)間の断絶の原因や、戦後日本の抱える問題点もあるのではないかと思う。多分、世の中の多くの人は、お金の話をすること、もしくは、全ての価値をお金に言い換えることが、人々にもっとも訴求する方法だと考えている。
メディアの切り口なんてほとんどがそれだと言ってもいい。
そして、そうした価値観や手法は、打算的な思いからだけではなく、朝生に出演するような善意の知識人にも浸透している(そう考えると、対話の断絶性とか、格差とかって決して世代間だけではないよなあ)。
労働問題は「カネ」で解決しないことが多い
この間、リアルでもネットでも、労働相談を受ける機会がありました。
「低賃金」「サービス残業の横行」「パワハラ」「モラハラ」「いじめ」「正規・派遣・パートで格差がある」「労働契約書がない」「管理職が責任放棄する」など。
明らかな労働法違反です。
そして同時に、「人を人として扱っていない」という、尊厳を踏みにじっている問題でもあります。
「ウチはひどいブラック企業だ」「賃金が低すぎる」「どうすればきちんとした待遇を受けられるか」と相談を受けます。
しかし、よくよく話しを聞くと、たしかに賃金や待遇の問題も大きいのですが、「人として扱われていない」「やりがいのある仕事をしたい」「職場の人間関係にうんざりしている」など、法ではカバーできない範囲の、「尊厳」が問題である場合があります。
「いい仕事がしたい」などの思いを、しかし実際に言葉に出すと「賃金や待遇などの権利の主張」という形でしか表現できない、コトバの不足があります。
そして、それを解決していくことは、一人ひとり違う解決になるので、非常に難しいです。