reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

経路の問題

二人の子どもに分数の足し算を教えた。


「1/3+1/4 は?」

「1/12」


ふたりとも同じように間違える。


「答えは7/12。どうしてだかわかる?」とたずねる。

異なる経路

一人は興味深そうに耳を傾ける。「1/3というのは、ひとつのケーキを三つに割った、切れ端のことなんだ」そう説明を始める。

「3つに割った切れ端と、4つに割った切れ端は大きさが違うでしょ?そのまま足したらおかしいよね?」

分数の「意味」を「おはなし」として理解した。だから、あとは訓練。何問も問題をとく。

手が、答えを覚え出す。

たくさんの問題を解いたら、もういちど、分数の意味を考えながら問題をとく。手と頭が連動する。


もう一人の子は、ぷいとそっぽを向く。一通り説明を聞いたあと、「たすきがけでしょ。授業で聞いたよ。なんで答えの出し方を教えてくれないの?」と憤慨する。

なるほど、そうか。「じゃあ、やり方を覚えよう。分母は掛けて、分子は相手の分母と掛けるんだよ。分子同士を足したら、答えになる」

分数の足し算の「計算方法」を理解した。だから、あとは訓練。何問も問題をとく。公式通り、何問も。

手が、答えを覚え出す。

一問解けるたびに、「気持よさ」を感じる。この「気持よさ」が定期的にないと駄目なのだ。栄養補給みたいなもの。

それに飽きた頃、「どうしてこういう計算方法なのかわかる?」と聞く。「興味ない」と答えが返ってきたら、「じゃあ、3つの分数の足し算、たとえば1/2+1/3+1/4はいくつ?」と聞く。

「習っていない」と答え。「こうするの」と、「公式」を教える。13/12。「どうしてこうなるの?」そら来た。「とりあえず、数問解いてごらん」


すでに分数の「意味」が手と頭で理解できた子は、3つでも4つでも考えながら解ける。解きながら、手が覚える。

その子を見て、「公式」を覚えることの面倒さを知った子が、聞いてくる。「もっと簡単に解ける方法はないの?」


「そうだね。じゃあ、分数の意味を考えてみよう」


そうして、手と頭で分数を理解する。一度に全てではなく、一歩一歩わかる。その歩く道筋は違っても、ゴールは同じ。

大切なのは、ゴールに辿り着くまでの道筋。相手の理解の道筋で、なにが「障害」になっているかだ。

経路を見つける

たいがい、ゴールに辿りつけないのは、ゴールまでの距離が遠いから。途中で不安になるから。

だから、こまかく「小ゴール」を作って、そこまでたどり着き、一息ついてまた次の「小ゴール」に向かうのだけれど、その「小ゴール」はひとりひとり違う。


疑問を解くことが「気持ちいい」と感じるひと。問題が解けた達成感を「気持ちいい」と感じるひと。その「小ゴール」はちがう。


山登りでは、「どこで休憩するか」「どの経路を通るか」が決定的に重要だ。

人間は適度な休憩と、水分や食事の補給がなければ動けなくなるし、あまりにも斜度がキツイところは登れない。


「山に登るには幾通りもの道がある。どの道を通っても、頂上に辿りつければいいんだ」

そのとおり。けれども、「どの道を通るか」の選択のほうがはるかに重要な場合がある、山頂にたどり着くためには。


「理解」と「適切な応答」にたどり着く道筋は、一人ひとりが異なる山に挑むみたいなもので、経路や補給などを適切に行わないと、そこから前に進めなくなる


それは、「オーダーメイド」でひとりひとり違う。

なので、自分にあった山登りの方法を見つけることが、継続して物事を行うためには必要不可欠なのだと思う。


このことは、多分どんなことにでも言えて、一気に走り抜けられないような問題では、補給のタイミングや経路の設定が必要になってくる


追い立てられるような気分になる毎日だけれど(実際に追い立てられる場合も)、恐怖心に取り込まれないで、自分自身の「休憩のタイミング」「補給のタイミング」「ここはどうしてもがんばらないとダメなタイミング」を計って、適切に休んだり心身の栄養を補給しよう