reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「ポジティヴ教」とか「自己責任教」に回収されない物言いはどうすればいいんだろう?

☆ 文末に追記があります ☆

励ましが自己責任論に似てくる理由 - モジモジ君のブログ。みたいな。さん


前半部分の僕の発言に対する解釈はその通りで、僕は「断言」することで、その後の行動をうながし、それによって生み出される新しい「場所」、今はまだ生成していない「場所」を指し示しているつもりでした。

まだ見ぬ「場所」に手を伸ばすこと

僕の「断言」を、「じゃあ、今ここでその場所を指し示してみろよ」と言われると、指し示しようがないですね。

だって、今現在その場所は無いから。

「無い」というのは、その人にとってその場所がないから。

無いと言うことだけは、はっきりしている。

「根拠」があるとすれば、それは「無い」と言うことだけでしょうね。


でも、未来は過去の反復ではなく、常に生成されていくものですから、過去に未来は縛られるものではないと思います。


もう少し話を聞いて、「じゃあ、ここと、ここと、この組織があなたにアドバイスをくれるかも知れない。行ってみると良いよ」とアドバイスが出来るかも知れません。


でもそれって、僕の整理だと、過去の場所を指し示すのではなく、これから生成する未来を指し示しているんだと思うんですよ。

だって、相談という「行動」を起こして、それによって新しい場所が指し示されたのですから。


もちろん、それらの場所に行ってもダメかも知れませんが、地形的な「場所」はダメでも、その人は「相談して行動する」というスキルを、ほんの一部ですが習得することに成功したのだと思います。

そのスキルもまた、「新しい場所」です。


「20世紀は、すでに世界のどこかに『答え』があると信じられていた世紀だった。けれど、実際には『答え』が無いことが見えてきてしまった。21世紀は、だから『わからない』ということから始めるしかない」と橋本治氏が言っていたけれど、その通りだと思います。


ここで言っている「答え」って、数学のように、2×2の答えが4とあらかじめ決まっているような「答え」じゃなくって、なにが「問い」かすらまだわからない状況なんですよね。

わからない「問い」を立てるところから始めなくてはならない、それが今の時代なんだと思います。

励ましの声を掛けられたときに検索を掛けるのは、自分のこれまで見聞きし体験してきた「経験」ですが、その中に「答え」があるとは限りません。

「答え」が無い場合、「できないよ」と返答するかも知れない。「もう十分やることはやってきて、どうしようもないんだよ」と答えるかも知れない。

でも、果たして検索範囲に「答え」があるかはわからない。

だから、「わからない」と問いを立てる。

そういうやり方はあると思うんです。

「休む」しかないときもある、だから、繋がる

ただ、言われるとおり、本人ではどうしようもない場合があって、いくら「行動してみたら」と言っても動けない時ってあるんですよね。

  • 心神耗弱して、もう一歩も動けない。
  • 心がくたびれ果てて、動くことが出来ない。

そういうときは確かにあります。


そういう人は、まず休むしかないのですが、それには二つの障害があって、

  • 休むに休めない状況
  • 本人が「今自分は休むしかない」と理解できない

と言うものです。


休むに休めない状況は、本人ではどうしようもありませんから、周囲が何とかするしかないのですが、たいがいそういうときは他人と分断されているか、集団全体が病んでいるので結構難しい。


後者は、「自分が休む」という状況にこれまで遭遇してこなかったので、それを理解できない、と言うことです。


僕は現在仕事を休職していますが、ようやく落ち着いてきました。

それまでは自分に保険金を掛けて死ぬことばかり考えていました*1

「休む」という言葉は単なる記号で、実体験としては理解できなかったんです。

これまでせいぜい数日間の休みしか体験してきませんでしたから、休むという行為自体がわからない。

だから休むに休めない。

もう少し仕事を続けていたら屋上からダイブしていたでしょうね。

追い詰められた視界から見える世界は、「自己責任論」に彩られた、モノクロームの世界でした。

全員が敵に見える。そういう状態でした。


そういうときは、元気な人間が手をさしのべなければいけない。

このことは、繰り返していいと思います。

そういうとき、助けられるべき当の本人は、猫科の動物のように、近づくものをひっかこうとして、周囲はなかなか近づきづらく、更に孤立を深めたりするのですが、それでもやはり、手をさしのべなくてはいけない。


社会の責任とはそういうことだと思います。これは抽象的な言葉ではなく、今ここですべきことだと思う。

過去をさかのぼり「自己責任論」を振りまく人って、病気なんだと思います。病んでいる。

少なくとも、その言葉は、かなり病的な言葉であることは間違いない。


ただ、それぞれの人間にはキャパシティというものがあるから、その範囲でしか人を救うことが出来ない。

僕が以前のエントリを書いたときに、「自分がおぼれているのに人を助けられるのか」というご指摘をいただきましたがその通りで、カルネアデスの板の状況にしてしまってはダメなのだと思います。

だから、一人のキャパシティを補い合うための繋がりが必要なんだと思います。

「ひき潰される」しかないのか?

そこで後半部分に繋がっていくんですが、ぶっちゃけ後半部分はよくわかりませんでした。

なのでほとんど質問になります。

長い徒労の挙句に絶望している人においては、希望はちゃんと見えていることもある。そして、希望があることを知ってなお、絶望している、というよりも、希望があること自体が絶望であるような、そういう段階の絶望があるのだ。希望が見えていないのではない。希望に倦んでいるのだ。そういう絶望の形態があるのだ。このような人たちに対しては、励ますということは、少なくとも合理的な説得ではありえない。励まされることに、何の得もない。励まされることは、なんらかの利益の取得につながることではなく、さらなる重荷を引き受けることである。つまり、「あなたには見えてないところの希望は、実際にはありますよ」と言うことは励ましにはならない。


「あなたにハッキリと見えているところのその絶望を、引き受けて生きよう」。


僕は、このように言えば励ますことができる、という答えを示したのではない。言うまでもないことだ。むしろ、僕は励ますことの不可能性を述べたのだ。


僕は、このように言えば励ますことができる、という答えを示したのではない。言うまでもないことだ。むしろ、僕は励ますことの不可能性を述べたのだ。そして、励ますことの不可能性を直視することだけが、残された可能性に寄り添うことでありうるのではないか。そう考える。


言葉をかけることすら難しい状況ですね。


寄り添うことくらいしかできないのか。抱きしめることは、時に千の言葉より雄弁です。


ここでモジモジさんは、「励ましに掛ける言葉はない」と言われているという理解でよろしいでしょうか?


ただ、

その上で、もう一度振り返って、「その人」に向けて述べておきたい。あなたには、逃げ道を見つけるための、状況を打開するための、必要なすべてがあるわけではない。むしろ、決定的に足りない。ただ、その場で立ち上がることだけは、それだけが、できる。そのままひき潰されるか、立ち上がってひき潰されるか、そのことだけは選ぶことができる。そこで僕が望むのは、できるならば、立ち上がってひき潰される方を選んでほしい、ということだ。励ますときに僕が求めているのは、そういうことなのだ。

これはよく理解できませんでした。

「立ち上がってひき潰される」しかないのでしょうか?

その場で休む、という選択肢を、その人には見えないけれど、他の誰かが指し示すことは出来ないのでしょうか?

休んで英気を養うための「溜め」をその人に与えることは出来ないのでしょうか。

指し示すと言うよりは、身体を支えてあげる、と言うことは出来ないのでしょうか。

そのことを僕は考えます。


掛ける言葉が「自己責任論」にしか受け止められないときに、それでも掛ける言葉は、ないのでしょうか?

そのことを、僕は考えます。

追記

ブログって、細かいコミュニケーション取るのが結構難しいですね。

適時追記していきます。

[B! 労働] 「ポジティヴ教」とか「自己責任教」に回収されない物言いはどうすればいいんだろう? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)

id:flurryさん

mojimojiさんの該当部分って、即座に「わかりました!」って返せるものじゃないと思うんですけど。

ありがとうございます。


でも、元々のエントリは自殺したいと思うほど追い詰められている人への言葉だったんです。

だから、「語りかける言葉」は必要だと思うんですよ。


たしかに、「わからなさ」には不必要な「わからなさ」と、わかる過程を通してしか学べないような、書き手が確信的にやっている「わからなさ」があると思います。

ラカンレヴィナスのテキストは確信的にそれを行っていますね。

「書き手への欲望」の回路を開かせることをテクストの目的にしていますから、「難解である」と読み手が感じなければ、テクストの効果が生じません。

「この人は何を言いたいのだろう」と考えさせる、そのような読み手の行動をうながすことがテキストの目的である場合は、必然的にそのテキストは難解になります。

ラカンは常に、精神分析とは真理を経験することだと主張する」

イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェクp234)

知識を得るのではなく、真理を経験するためには、読み手は、テキストを読みつつ、テキストから離れ書き手に語りかけるという迂回が必要だ、と言うことですね。


で、この場で求められる言葉って、もちろん前者ではありませんが、後者であるべきなのか、ちょっと疑問なんですよね。

わからなさを持って読み手に問いかけ、読み手に書き手への欲望をもたらすようなテクストである必然性が、僕にはよくわかりませんでした。

ぶっちゃけ、相手にストレートに伝わるように、わかるように書けませんかね?

それくらいに性急な問題だと思うのですが。

それは理解に必要な構造的な迂回を避けるからダメ、でしょうか?


ついでなので

[B! 議論] 連帯を広げていくために出来ること - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)

id:flurryさん
「議論の相手を論破することを目的とするべきではなく、それを見ている第3者へのアピールとして機能させるべき」 えーと、reponさんはジジェクを読んでいると伺いましたが『第3者』についていかがお考えでしょうか?

この場合第3者とは、議論の当事者以外の、その議論を見ている人たちを指していると思いますよ。

その人達に対するアピールがあってはじめて、現実的に世の中を変えていくことが出来るのだと思います。

もちろん「論破」も必要ですが、「論破」は議論の過程であり結果ではないと思っています。

逆に、ジジェクに引きつけて言えば、「メタ言語はない」と言う言葉になるでしょうか。

議論の過程を経て変化するのは、議論ではなく、それを行っている人間やそれを聞いている人間だと思うのです。

論破のための議論になって、両にらみになったところで「わかりやすい」(小泉純一郎氏のような)言葉がするりと入ってきたとき、聞き手はそちらに耳を傾けそれを受け止めると思います。

「議論に勝って政策で負けた」ではあまり意味がないと思いますが、いかがでしょうか?

おしらせ

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バンバン貼っていただければうれしいです!

*1:実際保険も掛けていますから、僕を特定して殺せば、保険金はおりますよ、但し僕の親にですが