「縦の線」と「横の線」
(付記)
「横の線」を横断するような、系譜学的な研究や考察があったら教えていただきたいです。
たとえば連合赤軍事件は「共産主義的思想の暴走」とか言われているけれど、その内実は、大塚英志氏が詳細に検証したように、
極めて現代的な若者が、極めて現代的な感性によって、極めて現代的な野蛮さを発揮して
起こした事件だということがわかる。
幹部の女性は「同胞」のかわいい女性に嫉妬し、「それはブルジョア的な退廃だから、自己批判しなければならない」と言いがかりをつけ、集団暴行を行った。
そこに思想はほとんど関係しない。
だが、事件は「共産主義思想」という言葉でコーティングされ、思想によって引き起こされたものと歴史にピン止めされている。
同じように、「自由主義」「民主主義」「フェミニズム」「エコロジー」「動物愛護主義」「◯◯教」等々、人々を束ねる言葉は様々にある。
人々は自分の所属をこれらの言葉で表すけれど、その内部で行われる人間同士のあり方は驚くほど似ている。
「自分は思想を持っていない」「自分は中立だ」「自分はどの主義にも属していない」という人が多数だと思うが、問題は「主義」を「信じて」いることではなく、そのように振舞っている、ということだ。
今だけではなく、かつてどこの集団にも属していない人などいない。
義務教育を受けていない人はほとんどいない。
いじめを見たことのない人はほとんどいない。
地域集団に属したことのない人はほとんどいない。
人と人とのしがらみを感じたことのない人はほとんどいない。
もっといえば、幼い頃、なんらかの共同体−家族が代表的だが−に属していない人はいないだろう。
会社も、ネットの集団も、旅行者同士の集団ですらそう。
そして、集団に属することでその集団は、「外部」からみれば、何らかの「色」がついているものだ。
その「色」を「主義」と呼ぶのか「臭い」と呼ぶのかはさておき、だけれど。
「ああいう事件を起こすから、思想は怖い」とたいがいの人は言う。
なにか「臭い」を感じる。
それは大切なことだ。それが身を守る。
危険な裏路地に行ってはいけない。本能に従うべきだ。
そして、僕が問題にしているのは、その「臭い」の構造だ。
人々が集まると、そこで起きる様々な出来事は、「思想」という、いわば『縦の線』とは離れて、どの『縦の線』の中でも起きうる『横の線』のようなものがあるのではないかと思う。
かつて自分の職場で、若い子をつかまえて難癖つけているお局がいた。
そこに労働組合の幹部が挨拶に来ると、彼女はクルッと表情を変えた。
幹部が、全く異なる産業の全く異なる職場における人権侵害について、救援の訴えを行うと、お局様は、心得た、というようにうなずき、「全く許せない」と、彼女の人権についての「思想」を披露した。
満足気に幹部が帰ったあと、さっきの続きとばかり、若い子を罵倒し始めた。
どんなひどいことをしている人も、いやむしろ、ひどいことをしている人ほど、そのことと「思想」の間に矛盾を生じさせない。
たまたま中世の異端審問官の書籍を読んだ。
ある異端審問官は、とある地方を把握し、そこの王のように振舞っていたという。
好みの女性が人妻ならば、当然のようにその夫を異端審問にかけ殺害した。
娘を差し出すのを嫌がる家族は、異端審問にかけ皆殺しにした。
その財産も没収し、全て自分の手のものとした。
あまりにも酷い有様が住民たちから漏れ、この異端審問官を調査するため教皇から派遣された高位の聖職者たちも、簡単に篭絡された。
篭絡されただけではなく、高位の聖職者の中には、彼の異端審問と、その処刑を見て、「なんという慈悲深く聖職者としてほまれ高いありかただ」と本気で絶賛するものもいたという。
『横の線』とは、地域的なものなのか、時間的なものなのか、なにか「法則」があるのだろうか?