reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「甘やかな連帯」を支えているもの

「甘やかな連帯」を背景に、他者への攻撃を駆動しているのは、他人のヒミツを暴こうとする欲望であり、それは十分に知的な行為なので危険だよ、というお話。


kousyoublog.jp – このドメインはお名前.comで取得されています。さんを読んで、以前に読んだこの本を思い出しました。

この本は、スロヴェニアの思想家、スラヴォイ・ジジェクの思想を扱っているのですが、ジジェクの思想は、フランスの精神分析ジャック・ラカンの理論の再解釈からなっていて、ややボリュームが大きいので、この入門書はよい手引きになります。


そのなかで、参考になる部分があったので、要約します。

「黒い屋敷」のはなし

人は、誰でもそれぞれの「世界観」をもっているけれど、その「世界観」はいくつかの「幻想」によって縫い止められている。

こんな話がある。

ある村の酒場で、老人たちが若い頃の自慢話をしている。それは村の外れの「黒い屋敷」と呼ばれる幽霊屋敷に、自分たちがいかに勇敢に挑み進入し、そこにいた怖ろしい魔物と闘ったかという武勇伝だ。

それを聞いていた若者が、実際に村はずれに行ってみると、あばら屋が一つ、あるにはあった。しかしそれは屋敷でもなければ魔物もいなかった。

村に帰って若者は老人たちに「ただのあばら屋じゃないか」というと、老人たちは一様に息を止めた。やがて若者は老人の一人に殺されてしまう。

何故か?

老人たちの「若い頃」という物語は、「黒い屋敷」という幻想で支えられていたから。

それを壊すことは、彼ら自身の世界を壊してしまうことに他ならないから。


ジジェクは、このような現実を支える「幻想」、それが「愛」であろうが「信頼」だろうが「信心」だろうが、それを否定するのではなく、それを、その人が独自に持っている、現実を支える大切な想いとして侵害せず、むしろそれらの想いを対立させることなく共存することを提唱しています。

「わたしたち」という「幻想」

「わたしたち」の世界は「いま・ここ・わたし」から遡って作られた「幻想」から成っています。


たとえば、60年代にみんなビートルズを聴いていた、なんて言うのは記憶のねつ造です。あの頃ビートルズを聴いていたなんて人は、よっぽど尖った一部の人たちでした。


また、「60年代は政治の季節」と言われますが、そもそもその中核を担っていた「大学生」の進学率は20%程度、高校生であっても8割で、まだまだ一部でした(出典)。


けれど、その「一部」の記憶が、今遡及して共有され、「わたしたち」という幻想を下支えしています。


記憶というのは、案外いい加減で、簡単にねつ造されるものであったりします。しかし、それは個人の幻想ではなく、「他人が抱いている幻想を抱く」という、共同幻想です。


共同幻想」は、共有された幻想であり、それは既に現実の一部です。


老人たちは「黒い屋敷」で、団塊の世代は「政治の季節」と「ロックンロール」で、ロスジェネは「失われた10年」で自分たちのアイデンティティを規定しています。


その人が何者でありどの時代に属していたかを示すのは、常に「いま・ここ・わたし」が信じる「幻想」です。

文化とは、「信じている誰か」を尊重する行為である

「自分たち」を縫い止めている「幻想」が他の人たちにとってはまったくばかばかしいものに見えても、それを大切にして欲しい、という思いは誰でもあるものです。


「幻想」は、それを信じていないものからすれば、まったくばかげたことに思えます。


ところでその「幻想」を当人たちも疑いなく信じているのかというと、実はそうでもない。

ある有名な人類学的な逸話によれば、迷信的な信仰(たとえば自分たちの祖先は魚あるいは鳥だという信仰)をもっているとされる未開人が、その信仰について直接に尋ねられた際、こう答えたという。「もちろんそんなことは信じていない。私はそんなにばかじゃない。でも先祖の中には実際に信じていた人たちがいたそうだ」。要するに、彼らは自分たちの信仰を他者に転移していたのである。われわれも子どもに対して同じ事をしているのではなかろうか?われわれがサンタクロースの儀式を行うのは、子どもが信じている(と想定される)からであり、子どもを失望させたくないからだ。いっぽう、子どもの方も、おとなを失望させないために、そして子どもは素朴だという我々おとなの信仰を壊したくないために(そしてもちろん、ちゃっかりプレゼントをもらうために)、信じているふりをする。


「本気で信じてはいない。単に私の文化の一部なのだ」というのがわれわれの時代の特徴である、遠ざけられた信仰の一般的な姿勢であろう。「文化」とは、われわれが本気で信じず、真剣に考えずに実践していることすべてを指す名称である。だからこそわれわれは原理主義的な信者たちを、本気で信じている「野蛮人」だ、反文化的だ、文化への脅威だとして軽蔑するのだ


(p58-60)


文化とは、未開の部族の信仰と同じ構造をもっています

「王様は裸だ!」と指摘できるのは子ども

裸の王様が裸であることを誰も指摘できなかったとき、唯一子どもが指摘し、許されたのは、こどもが「野蛮な存在」「人間になる前の人間」だと受け止められたからです。


「文化的な人間」は、他の人間が信じている(と想定される)幻想を壊さないように配慮します。誰も信じていないけれど、「誰も信じていない」という事実をあからさまにしないために、「誰も信じていない」ことに口をつぐむのです。


これは、性的なことがらでは日常的に起きていることです。


だれもが、性的な事柄について、多かれ少なかれ事実を知っています。けれど、それを「みんなが知らない」ふりをすることが、「文化的」な身振りだとみんな知っているのです。


子どもは、「自分だけが知っている」と思いこむことが出来るほどに、こどもだからこそ、おとなたちから「失言」を許されるのです。

「子ども」は、「みんなが黙っているであろう(と想定される)からこそ、それを暴く欲望に駆られる」

自分の信じる「幻想」を唯一絶対のものとして、他人の「幻想」をまやかしだと「看破」し、攻撃をするひと(つまり「こども」だと見なされている人)は、じつは、十分に自分の「幻想」が「幻想に過ぎない」という事実を知っています


「自分だけが真理を知っている」と信じ込めるほどに子どもである人をわたしたちは子ども、としてとらえますが、子どもは子どもで、十分にそのことを知った上で、あえて「子ども」として振る舞っています


他人の幻想を暴く行為、自らの「幻想」が唯一のものであるとして他人の「幻想」を攻撃する行為は、無知からではなく、実は十分にそれが野蛮であると自覚されて行われます


子どもにとって、「隠されているヒミツを暴く」行為は、何にも代え難い楽しみだからです。


「甘やかな連帯」を口にする人が、無邪気に自分の「幻想」を信じている人ばかりではありません。

むしろ、それが「幻想」であると十分に認識した上で、あえてそれを壊すことに悦びを感じ攻撃を加える人がいます。


賢い人ほど、「ヒミツを暴く欲望」を満たすために、「あえて」幻想を信じ、それを攻撃の理由にします。


その「暴露したい欲望の発露」に対しては、対処する側も、相手が十分に物事を理解していて、「あえて」それを知らないふりをしていることを熟知して対応する必要があります。