reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「理系な人」と「文系な人」

「理系な人」というのはあまりうまい言い回しではないかも知れませんが、とりあえず「理系な人」「文系な人」と分けてみます(これを「男性」と「女性」と分けるとたいがい怒られます)。これはあくまで傾向です。わたしは「理系な人」の傾向が強いです。
「理系な人」は、常に観測者の位置に立とうとして、自分の行為によって世界が変わることを勘定に入れないことが多い。もっと「いい時期が来るまで」待ち続けて、自分の中で世界を解釈することで時間を費やす傾向がある。これを他人から見ると、「動かない」「頭でっかち」「引っ込み思案」「考えすぎ」とか見えることが多い。

「文系な人」は「やってみなければ始まらない」と考えます。とりあえずやってみる。自分を中心に世界が広がっていると見えることがおおい。世界の中に自分の行為は意識せずにはじめから勘定に入れられているので、常に世界との一体感をもっています。これを他人から見ると、「自己中心的」「感性的」「軽率」「配慮が足りない」とか見えることが多いようです。

ところが、実際には問題の解決というものは、自分の行為による(成功よりむしろ)失敗を通して、「ちょうどいい時期」が来るものであったりします。

「理系な人」のように、「いい時期」が来るのを待って行動しないことが正解なこともあるわけです。待った結果チャンスを取り逃がして「グズ」だと判断される(自省する)ことも多いのですが……
逆に「文系な人」の行動の失敗は「軽率」とだけ判断するべきではなくて、次の成功に続くための第一歩かも知れないわけです(失敗の連続が続くかも知れませんが……)。
どちらが「正解」かは最後(というか最期)にならないとわからない。けれど、判断して行動する(しない)ことが結果を変える。判断というものと「正解」の関係は方程式を解くように直線的ではなくて、こちらが動けばあちらも動くような関係になっているわけです。
ややこしい (^^;

だからむしろ、どのような結果に結びつくかと言うことよりも、そこに至る過程(プロセス)のほうが重要なのではないかと思うのです。だって、終わって結果が出なければその判断の正否はわからないけれど、判断は結果が出る前にしなければならないのですから。

つまり、「理系な人」と「文系な人」というのは、問題に直面した人間の行動の二つの側面を表しています。
だから、どちらがよいと言うことではなくて、お互いに補い合うものとして考えることが必要だと思うのです。

そして、行動か待機か、という選択は、選ぶことで次に同じ選択をする傾向があるので、「行動」を選んだ人はずっと「行動する人」として世界が見え、「待機」を選んだ人はずっと「待機する人」として世界が見える。そのため、「行動」している人は「待機」している人を、「待機」している人は「行動」している人を理解できないわけです。
「理系な人」と「文系な人」が理解し合えない点はここにあります。

もし自分が「理系の人」なら、「文系の人」という行動の仕方と世界の見え方が存在することを想像する。逆に「文系の人」なら「理系の人」の世界の見え方を想像する。このことによって、実際には結果は一つであって、そこから逆算して見えるプロセスも一つだけど、複数のプロセスが見え、世界が広がって見えるのです。というより、世界とはそういうもの(SFでいう「多元宇宙的」なもの)です。

いずれにしても、世界を見るときに人は、「自分をいつも置き忘れて」見る傾向があるみたいです。
他者は全く自分とは違う世界が見えていると考えた方が良いようです。対立ではなく補い合うことがベターだと思います。



「理系な人」は「強迫神経症者」、「文系な人」は「ヒステリー症者」と言い換えることもできます。

強迫神経症者は行為を遅らせ、先に延ばし、ちょうどいい時期を待つ。一方、ヒステリー症者は、(いわば)自分の行為によって自分自身を追い越」す(「イデオロギーの崇高な対象」スラヴォイ・ジジェクp95)