「自分探し」と「自分を決めること」は位相の異なる話
「自分探し」と山文京伝作品 −政治的幻影としての役割付け洗脳−
404 Blog Not Foundさん404 Blog Not Found : 探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない
自分を決めた人というのは、一定の他者からは必ず滑稽に見える。どの角度から
見ても理想的な人などいないのだ。それを見て嗤うのはあまりに容易い。
しかし彼らは嗤われるだけましなのだ。自分を決めていないものは存在しないに
等しい「幽霊」であり、嗤われる対象とすらなりえないのだから。
これは逆じゃないだろうか…?自分を自分で決められるという考え方ほど、
極めて暴力的に政治的・権力的で危険な考え方はないんじゃないかな…。
非常にすっきりしました。
自分も、「自分を決めろ」という言葉には違和感を抱いていたので。
「自分探し」と「自分を決めること」は全く別の話なんですよね。
この二つが混同されると、訳がわからなくなる。
経済的な足場を定めて、家族などを作り、社会的基盤を作ることが「自分を決めること」だとすれば、その上で自分を再構成し続けること=「自分探し」は可能なわけです。
はじめからレベルの異なる概念を並列しているから、おかしいのです。
「自分探し」は永遠に終わらないのですよ。それを無理に終わらせようとすると、問題が生じる。
「本当の自分」など無いところに無理矢理自分を作るから、歪みが生じる。
そのこととは全く別に、自分が生きていく基盤を作ることは必要で、そのための仕事や家族がたまたま自分の希望に添っていれば、「自分を決める」ことと「自己実現」が一致するのですが、それは結果に過ぎず、それが一致していなくても充実して生きることは可能なのです。