reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「とらドラ!」は記念碑的作品

現在のサブカルチャーの想像力を

大きく塗り替えた作品。


その役目は、

主人公である竜二が

主に背負っている。


竜二は日常に生きる。


ロボットに乗って闘わないし、

ロボットに乗ることを拒否しないし、

そもそも自分の問題を解決するのに

ロボットを必要としない。


誰かと一体になって解け合うことを

渇望しないけど、

別に愛は否定しないし、

十分あたたかくて、

生活力がある。


ぼくらは

テレビのニュースを繰り返すことで、

まるで世界を理解して、

自分の日常を語っているように

錯覚しがちだけど、

その紋切り型の言葉から

こぼれ落ちる日常を、

自分の目線まで

下げて語る言葉は

もってなかったりする。


それは、

手を動かして、

日常を生きることで、

得られるものだから。


竜二は

料理をして

掃除をして

日々の生活を順調に送ることを

とてもすばらしいと知っている。


彼はきっと

これまで語られてきた

様々なものがたりの

どの主人公にも

似ていない。


これまでのものがたりの

主人公たちは

行動するたびに

勇ましい、楽しげな、悲しげな、うきうきするような

BGMがかかり

スポットライトの中で、

世界には自分しかいないように

認識して

振る舞う。


竜二は、

感情がフラットだ。

冷めているわけではなく、

精神が

現実に

立脚しているのだ。


その確かさが、

旧来型「ヒロイン」であり、

BGMが鳴りまくりの

スポットライトの中にいて

今にも暴走寸前の

大河を

抑える。


抑えて

正しいと思える方向へ

すこしずつ

悲壮感もなく

高揚感もなく

着実に

日常を生きながら

近づいていく。


これは、

セカイ系に対する

ゼロ年代

一つの応えであり、

メルクマールであると

僕は思う。


ぼくらは

ニュースを見て、

小説を読んで、

コミックを読んで、

映画を見て、

そこから

言葉を覚える。

紋切り型の言葉を。

その、紋切り型の言葉で

自分を語ってしまおうとする。


自分が置かれている状況や

自分が必要としているものや

自分が欲しているものは

オーダーメイドの言葉、つまり

自分自身の言葉でなければ

語ることができないのに、

「既製品」で間に合わせようとする。


目の前にある

日常を

創っていくという

積み重ねの作業を

できない。


自分を語る言葉をもてないまま

日々を過ごすと、

人は

「一発逆転」を

願うようになる。


ある日、

王子様があらわれて

すべてをチャラにして

幸せにしてくれるような

そんな夢に

いつのまにか

賭けている。


「一発逆転」に

いつのまにか

賭けている。


たとえば「一攫千金」

たとえば「革命」

たとえば「戦争」

あるいは「破滅」

ここではない、どこか。


そうではなく

一発逆転ではなく

静かに

日常を創っていくこと、

仲間を創っていくこと、

自分の言葉を創っていくこと。


積み重ねていくこと。


それが竜二のしてきたこと。


それが

ゼロ年代を通じて

サブカルチャーの模索が

たどり着いた

ぼくらのリアルだと

思う。


セカイは、変わらない。

日常は、続いていく。


でも、

世の中をひっくり返すような出来事が

起きなくても、

ぼくらは

幸せになれる。


そのことを

この物語は

示している。