「子どもたち」しかいない世界で
相変わらず、ハッとさせられる。
村上文学は一つの「宇宙論」だと私は思っている。「猫の手を万力でつぶすような邪悪なもの」(『1973年のピンボール』)に愛する人たちが損なわれないように、「境界線」に立ちつくしている「センチネル(歩哨)」の誰にも評価されない、ささやかな努力。それを描くのが村上文学の重要なモチーフの一つである。
「センチネル」たちの仕事は『ダンス・ダンス・ダンス』で「文化的雪かき」と呼ばれた仕事に似ている。誰もやりたがらないけれど誰かがやらないとあとで他の人たちが困るような仕事を、特別な対価や賞賛を期待せず、黙って引き受けること。そのような「雪かき仕事」を黙々と積み重ねているものの日常的な努力によって「超越的に邪悪なもの」の浸潤はかろうじて食い止められる。政治的激情や詩的法悦やエロス的恍惚は「邪悪なもの」の対立項ではなく、しばしばその共犯者である。
全く無意味に、猫の手を万力でつぶすような「超越的に邪悪なもの」は存在する。
誰が悪意を持ったかは、ここでは焦点ではない。
悪意の有無すらなく、ただ、受け手にとって邪悪な行動というものは存在する。
そういう存在に出会ってしまったとき、それに十分耐えうるだけの強さを持たないとき、僕らが出来ることは一つだけだ。
逃げることだ。
しかし逃げることは、簡単には敵わない。
そのとき、出来るだけ上手に、自分の身を守ることが大切なのだろう。
だから、ディフェンスを上手になること*1が必要だ。
邪悪な力を、上手に受け流すこと。邪悪な力に出会っても、生き延びること。
それは痛い目を見ないとなかなか上手になれない。
実は、助けられているときは気づかずに助けられている。
家事は、「シジフォス」の苦悩に似ている。どれほど掃除しても、毎日のようにゴミは溜まっていく。洗濯しても洗濯しても洗濯物は増える。私ひとりの家でさえ、そこに秩序を維持するためには絶えざる家事行動が必要である。少しでも怠ると、家の中はたちまちカオスの淵へ接近する。だからシジフォスが山の上から転落してくる岩をまた押し上げるように、廊下の隅にたまってゆくほこりをときどき掻き出さなければならない。
洗面所の床を磨きながら、「センチネル」ということばを思い出す。
人間的世界がカオスの淵に呑み込まれないように、崖っぷちに立って毎日数センチずつじりじりと押し戻す仕事。
家事には「そういう感じ」がする。とくに達成感があるわけでもないし、賃金も支払われないし、社会的敬意も向けられない。けれども、誰かが黙ってこの「雪かき仕事」をしていないと、人間的秩序は崩落してしまう。
ホールデン・コールフィールド少年は妹のフィービーに「好きなこと」を問われて、自分がやりたいたったひとつの仕事についてこう語る。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。
(J・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社、二〇〇三年、二八七頁)高校生のときはじめてこの箇所を読んだとき、私は意味がぜんぜん分からなかった。
何だよ、その「クレイジーな崖っぷち」っていうのはさ。
でも、それから大きくなって、愛したり、憎んだり、ものを壊したり、作ったり、出会ったり、別れたり、いろいろなことをしてきたら、いくつかわかったこともある。
「キャッチャー」仕事をする人間がこの世界には絶対必要だ、ということもその一つだ。
「キャッチャー」はけっこう切ない仕事である。
「子どもたちしかいない世界」だからこそ必要な仕事なんだけれど、当の子どもたちには「キャッチャー」の仕事の意味なんかわからない。崖っぷちで「キャッチ」されても、たぶんほとんどの子どもは「ありがとう」さえ言わないだろう。
感謝もされず、対価も支払われない。でも、そういう「センチネル(歩哨)」の仕事は誰かが担わなくてはならない。
(同著 p27-29)
404 Blog Not Found : バイキング式のレストランで給仕を待つ君たちへさん
「宛名のない善意」
「宛名のない善意」を、僕らは、ライ麦畑のクレイジーな崖っぷちで「子どもたち」を「キャッチ」してくれる「センチネル(歩哨)」と言い換えることが出来るかも知れない。その善意に助けられた「子どもたち」は、自分が助けられたことすら気づかない。
「センチネル」というキャッチャーは報われない仕事だ。それでも、誰かが無数の「無名の善意」を発して、この世の中は成り立っている。
しかし、不意に、クレイジーな崖っぷちで助けてくれる人間が誰もおらず、転落しそうになっている自分を発見する。
その時はじめて、何がクレイジーなのか、それを知る。
正確には、手傷を負い、崖っぷちから辛くも逃げおおせ、落ち着いてはじめて、クレイジーのクレイジーさを知る。
崖っぷちに立たされ生還した後、その原因を物語ることは可能であるし、必要であるとも言える。
「トラウマ」というものはそういうものだ。
「トラウマ」とは、自らを傷つけた原因となる、実在する経験ではない。傷ついてしまった自分を物語るために作られた「経験」だ。
実際にはその悪意には、けれど原因はない。崖っぷちに経たされた原因など無い。ただ、いきなり崖っぷちに立たされる。原因と思われる場所には、黒い虚無が広がっているだけだ。
人は自分が傷ついたことが、何の意味もなく原因もなくただそこにあった邪悪なものに引き裂かれただけ、という事実に耐えることは出来ない。だから、原因を探す。必ず探す。
こころの治療というものは、だからこの原因を「発見」し、物語ることで、自らの中で邪悪なものを認めることだ。
僕が見舞われたハラスメントは、確かにひどい上司や意地悪なお局が直接的な原因だった。
けれど、僕が出会ってしまったのは、無数の原因の連鎖から構成されたただそこに無意味にあった「超越的に邪悪なもの」だったのかもしれない。
ハラスメントなど、無意味な行動なのだ。それを行う人間自身が、危機にさらされる、非常に不経済な行為だ。それでも、人は頻繁に、他人を攻撃し、ハラスメントを執拗に行う。その原因は長時間過密労働だったり、家庭内の問題だったり、報われない自分自身に対するいらだちだったり様々だろう。特定の原因はないのかも知れない。
事実としてあるのはただ一つ、僕がひどい目にあったと言うことだけだ。
原因がどうあれ、それだけが事実だ。
僕は気づかないうちに、「クレイジーな崖っぷち」に立っていたのかも知れない。
そしてそれまで、何度も「クレイジーな崖っぷち」に立ったことがあったけれど、「センチネル」たちが助けてくれていたのかも知れない。
だから、崖っぷちに立っていたことすら気づかなかったのかも知れない。
「クレイジーな崖っぷち」に立ってしまうのは、「超越的に邪悪なもの」に出会ってしまうのは、常に偶然で、避けようと思っても避けられるものではないし、逆に言えばそれに出会ってしまうことに明確な原因などは存在しない。
出会わなければ出会わないでいいのだ。そのような「試練」を乗り越えるために人は生きているわけではない*2。
人はその事実を認めることは生理的に出来ないから、その認識を抑圧して自身に隠蔽する。
ほとんどの時間、そのような「超越的に邪悪なもの」を頭では分かりながら、感覚としては遠ざけて過ごしている。
構造的に、人は「超越的に邪悪なもの」に対して、無知になる。
だからほとんどの場合、「超越的に邪悪なもの」は「突然」やってきて、僕らの身を引き裂く。
「超越的に邪悪なもの」に対してこれから僕が出来ることは3つ。
- ささやかな「センチネル」の役目を果たす。
- 逃げ方を、ディフェンスの仕方を少しずつ学ぶ。
- 自分を取り巻く世界に存在する「超越的に邪悪なもの」が、まったく無根拠に存在し、偶然に出会ってしまうようなものであることを知る。
多くの人が、「クレイジーな崖っぷち」から生還することを祈る。
僕もまた、自分自身が「クレイジーな崖っぷち」から逃れることを祈る。
自分の限界がどこまでかを 知るために
僕は生きている わけじゃない
(「Hello Again〜昔からある場所」My Little Lover)
チベットリンク
中国政府の行為が「超越的に邪悪なもの」だからと済まされるものではないが、大切なことは、なによりもまず、この虐殺を止めさせ、事態を打開する方向で事を進めることだろう。
ささやかでも、できることからやろう。